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関ヶ原の石田三成陣地跡に関する論文です。


関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告

高橋陽介
石田 章


一 遺構調査に至る経緯(高橋)

 二〇一五年十一月に論者は、『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(1)において、関ヶ原合戦における石田三成の笹尾山布陣を否定した。(2)

 二〇一六年三月に白峰旬氏は、「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する : 高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して」(3)および「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 : なぜ大谷吉継だけが戦死したのか」(4)において、論者の説(石田三成の笹尾山布陣を否定する説)を追認された。さらに島津家家臣史料を詳細に分析され、西軍の布陣に関する見解を示された。

 二〇一七年二月に論者は、『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』(5)において、関ヶ原合戦における石田三成の本陣は岐阜県関ケ原町大字藤下二八四-一の丘陵およびその周辺であるという見解を示した。

 二〇一七年二月二十六日、論者は関ヶ原新説に基づく石田三成本陣比定地(6)の現地調査を行い、削平・切岸・土塁等の遺構(6)を確認し、東海古城研究会役員・石田章氏にさらなる現地調査と、縄張り図の作成を依頼した。

 二〇一七年三月六日より、石田章氏は岐阜県不破郡関ケ原町大字藤下二八四‐一の丘陵、石田三成本陣比定地およびその周辺の遺構を数次に亘って調査され、藤下若宮八幡宮南側の丘陵に東西約三〇〇メートルの土塁を含む陣城の遺構を確認された。本報告の後半部分は、石田章氏による調査報告である。


二 石田三成藤下本陣説の論拠および根拠史料(高橋)

① 「九月十二日付石田三成書状」によると、慶長五(一六〇〇)年(以下すべて同年)九月十二日頃、小早川秀秋は東軍に内通しているという風聞があった。それまで小早川秀秋は伊勢方面への出陣命令に従わず、佐和山周辺で待機していた。
→「一、敵方へ人を付置聞申候、佐和山口より被出候衆の中大人数もち、敵へ申談らるゝ子細候とて、此中相尋候、其故は、勢州へ被出陣をも申留、各面々在所在所に被相待候様にと申談なとゝ申、此二三日は、頻にかけの口有之、敵方いさみ候つる、」(「九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」(7)より抜粋)

② 島津豊久の家老・宮之原才兵衛の後年(8)の記述、および島津家家臣・井上主膳の後年の記述(9)によると、九月十四日の夜、小早川秀秋は東軍に寝返ったという情報が大垣へ伝わった。
→「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(「宮之原才兵衛書上」(10)より抜粋)
→「ヶ様之御談合(11)最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (「井上主膳覚書」(12)より抜粋)

③ 徳川家康の侍医・板坂卜斎の後年の記述によると、石田三成ら西軍は、松尾山の小早川秀秋を仕置きするために大垣を出発し、関ヶ原へ向かった。小早川秀秋は西軍の伊藤盛正を駆逐して、松尾山を占拠していた。小早川秀秋による松尾山占拠は、西軍への明確な敵対行為である。(13)
→「此時備前中納言・小西摂津守・石田治部少輔、大柿を出て関原へまいられ候由、子細は筑前中納言むほんと風聞候、仕置いたすべきとて出られ候、」(板坂卜斎『慶長年中卜斎記』より抜粋)

④ 「九月十二日付石田三成書状」によると、松尾山の伊藤盛正は西軍にその向背を警戒され、人質を取られていた。伊藤盛正は、小早川秀秋に同調すれば人質を殺されてしまうと危惧し、松尾山から撤退したと考えられる。
→「当城近辺の人質、伊藤家来のもの、並町人のしちもつ迄入置候、敵より火付之才覚、伊藤若輩故、家中之者共、様々之才覚仕候に付て、心ゆるし不成候、」(「九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」(14)より抜粋)

⑤ 徳川家康の側近・戸田氏鉄の後年の記述によると、石田三成の本陣は「自害か岡」という場所であった。これは岐阜県不破郡関ケ原町大字藤下二八四の一、現在「弘文天皇御陵候補地」として史跡指定されている丘陵「自害峰」に比定し得る。西軍の布陣はここを基点として松尾山を攻撃するための布陣であると考えられる。
→「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄『戸田左門覚書』(15)より抜粋)


三 西軍諸隊布陣地の比定(高橋)

【地図】石田三成藤下本陣比定地「自害峰」周辺の地図(国土地理院地図を規約に従って加工した。)
自害峰



E:石田三成藤下陣地、前備、「自害峰」。
 先述のとおり、戸田氏鉄の後年の記述によると、石田三成は「自害か岡」に布陣した。藤下は「とうげ」と読む。従来、『戸田左門覚書』における「自害か岡」は笹尾山(16)のことであると考えられていた。
 丘陵の南側に土塁等の遺構が集中している。南面・松尾山方面を志向した陣地である。
 西軍の布陣はここを基点として松尾山を攻撃するための布陣であると考えられる。

D:石田三成藤下陣地、後備。
 石田勢は街道を扼して布陣したものと考えられる。「自害峰」は街道の南側にあるが、新納忠元の後年の記述によると、石田三成は街道の北側に居た。現在は住宅地になっていて、遺構は残っていない。
→「暮時分より大柿御進発、夜中之大雨降に牧田之間道被為通、寅剋計関ケ原二御到着、街道之北二被備居候石田陣所を御尋付、」(「新納忠元勲功記」(17)より抜粋)

A:島津義弘山中陣地(伝・大谷吉継陣地跡)
 松尾山に対する西軍の二番備である島津隊の陣地は、自害峰を通過し、それよりさらに西へ約一六五メートル進んだ場所に位置した。島津義弘の陣地は東山道から約一一〇メートル北に位置した。
→「暮時分より大柿御進発、夜中之大雨降に牧田之間道被為通、寅剋計関ケ原二御到着、街道之北二被備居候石田陣所を御尋付、自其右之方壱町半程も可有之所二、未明より夜明迄御備被為配、中書(18)忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二当而御先二被相備、其次 松齢様(19)壱町計街道より北に当、藤川越し小関之南巽向二被為備、」(「新納忠元勲功記」(20)より抜粋)
→「夜明前ニ関ヶ原江御着候、御陣場御見合候処、石田殿備御座候、夫より右之方江一丁半程間候而、此方軍衆夜明御備被成候、御備御座候、中務様先備ニて候事、」(「黒木左兵衛平山九郎左衛門覚書」(21)より抜粋)
「夜明前ニ関ヶ原へ御着候、御陣場見合候処ニ、石田殿備場芝切立候て被備居候、夫より右之方へ一町半程間候而、此方軍衆夜明被成備候也、_中務様備ニて候、」(「山田晏斎覚書」(22)より抜粋)
→「又東ニ為備石田軍衆も、」(「新納忠元勲功記」(23)より抜粋)
→「此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、此方者二番備ニ而候処、」(「神戸五兵衛覚書木脇休作働之次第」(24)より抜粋)
→「此方之御陣ハ弐番そなへニ而候、」(「神戸久五郎覚書」(25)より抜粋)
 島津陣地の背後には堀があった。
→「敵方より馬を七百計両度入来候、二度め之戦ニ大乱に罷成候、薩摩衆大方後之堀に逃入候、」(「井上主膳覚書」(26)より抜粋)
 これらの情報から、論者は島津義弘の陣地を岐阜県不破郡関ケ原町大字山中三〇の一、山中若宮八幡宮周辺、現在「大谷吉継陣地跡」として史跡指定されている丘陵に比定する。
 現在「大谷吉継陣地跡」とされている場所の北側には東西に伸びる堀(27)があり、明らかに南・松尾山方面を志向した陣地である。
 現在「島津義弘陣地跡」(28)とされている場所は島津家家臣史料の記述と整合し得ない。

B:島津豊久山中陣地。
 島津隊のうち前備である島津豊久は街道の南側に布陣した。南側が前備であるという島津家家臣史料の記述は、やはり正面は東・関ヶ原方面ではなくて、南・松尾山方面であるという説の裏付けとなり得る。
→「石田陣所を御尋付、自其右之方壱町半程も可有之所二、未明より夜明迄御備被為配、中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二当而御先二被相備、」(「新納忠元勲功記」(29)より抜粋)
→「此方御備二備ニ御座候、_中書様先備ニ而候、」(「黒木左兵衛申分」(30)より抜粋)

F:宇喜多秀家・小西行長陣地。
 松尾山に対する西軍の一番備は宇喜多隊と小西隊であった。
 丘陵の上部は削平されている。東西約三〇〇メートルの土塁が丘陵の南側にある。東端に堀切がある。この丘陵の遺構は「陣城」というよりは「城」であり、急ごしらえですべて作れるのもではない。宇喜多隊・小西隊はもともとあった陣地を利用し、松尾山攻撃のための普請を短時間で行ったものと考えられる。
 松尾山山頂の小早川秀秋陣地からの距離は地図上約一キロメートルである。
 島津家家臣史料によると、宇喜多隊の陣地は島津隊の陣地より東に位置した。島津隊と宇喜多隊の間は約四四〇~五五〇メートル離れていた。島津隊と宇喜多隊の間には池(図中C)があった。また、島津隊の陣地から、宇喜多隊の陣地は、間に丘陵(図中E)があって戦闘の様子がよく見えなかった。これらの情報は現在「宇喜多秀家陣地跡」として史跡指定されている場所(31)とは整合し得ない。
→「此勢次第ニ責近付、_惟新様御備より東之備前中納言殿備ニ押懸合戦有之候、」(「島津家家臣某覚書」(32)より抜粋)
→「其次四五町計備前中納言秀家・小西行長等小高き岡二相備、」(「新納忠元勲功記」(33)より抜粋)
→「此方御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、此方者二番備ニ而候、」(「神戸五郎兵衛覚書木脇休作働之次第」(34)より抜粋)
→「又岡越ニ為備居備前中納言秀家の陣」(「新納忠元勲功記」(35)より抜粋)
→「備前中納言殿陳へハ、別大将相掛申候而一戦被成候得共、前ニ岡御座候而此方之陣よりハ見得不申候、」(「神戸久五郎覚書」(36)より抜粋)

C:低湿地。
 島津隊の陣地と宇喜多隊の陣地の間には池があった。島津家家臣史料によると、東軍に攻撃され壊滅した宇喜多隊はこの池へ逃げ込み、さらに島津隊の陣地へ逃げてきた。
 なお、現在「島津義弘陣地跡」として史跡指定されている場所(37)の近くの民家の敷地内に「島津池」という名前の人造の池があるが、これは位置・大きさとも島津家家臣史料の記述と整合し得ない。
→「備前中納言殿陳取_惟新様御陳取之間池有、中納言殿人数皆々池へ逃入申、此方之陣場ニ乱入方々被成候、」(「大重平六覚書」(38)より抜粋)
→「秀家之陣所と此御方御陣之間ニ池有之、秀家軍衆皆此池ニ逃入、其敗北ニ被押立、薩摩人衆も亦逃入者有之、」(「新納忠元勲功記」(39)より抜粋)

G:台地(伝・脇坂安治陣地跡)。
 河岸段丘の北側に土塁が設けられており、地図中「F」の陣地と正対しているように見えるが、ここに小早川隊の一部が布陣していたと仮定すると、西軍の第一陣(宇喜多・小西)との距離が近すぎる。
 石塚晋一氏の説によると、現在「脇坂安治陣地跡」とされている場所は農地の整備に伴う遺構である可能性が高い。(40)
 島津家家臣史料には、小早川隊の布陣に関する記述は欠落している。これは先述のとおり、小早川秀秋がすでに敵であったためであると考えられる。もちろん、大谷吉継が小早川秀秋の寝返りにそなえて配置したという脇坂・朽木・小川・赤座らの布陣に関する記述も欠落している。

H:大谷吉継陣地。
 大谷吉継が九月十四日以前、大垣に布陣していたことは、「池田照政書状」および、島津豊久の家老・宮之原才兵衛の後年の記述に見られる。池田照政は九月十四日の夜、大垣の大谷吉継の陣地に相対した。九月十五日に、山中にいる石川光吉と連絡が取れず、そのため「調儀に及ばなかった」と釈明している。
→「然者九月十四日之夜、大谷刑部少陣取へ相着申候処、明十五日未明御一戦にて被仰付、備前調義に不及仕合に候」(「十月七日付本多正純宛池田照政書状」(41)より抜粋)
 島津豊久の家老・宮之原才兵衛の後年の記述によると、九月十四日以前、島津豊久は大谷吉継と共に大垣城外に布陣していた。
→「大谷刑部少輔殿一所に 御陣取被成候、然に筑前中納言一揆被起 内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(「宮之原才兵衛書上」(42)より抜粋)
 「吉川広家書状案」によると、大谷吉継はいちばん最後に大垣から撤退した。そのため関ヶ原ではもっとも東の位置に布陣していたと考えられる。
→「就其大柿衆も彼地被居候事不成候而、如山中大刑少陣無心元之由候て、被引取候、(43)」(「吉川広家書状案」(44)より抜粋)
戸田氏鉄の後年の記述によると、大谷吉継の陣地は藤川(現在の藤古川)の川辺であった。ただし藤川の西・藤下は石田三成の陣地であるため、大谷吉継の陣地は藤古川の東岸であったと考えられる。  
→「十五日_内府公大谷刑部少陣場藤川に御一宿」(戸田氏鉄『戸田左門覚書』(45)より抜粋)

結論:西軍の陣地は四四〇~五五〇メートルほどに密集した陣形であり、笹尾山~松尾山間・南北約三キロメートルにおよぶ長大な「鶴翼の陣」等ではない。
 西軍の布陣は、南方・松尾山を志向している。東方から来るであろう東軍を待ち受ける布陣ではない。ただし、東方をまったく警戒していなかったかというと、そうではなく、東山道を扼しつつ、松尾山へ圧力をかける布陣となっている。歴史にもしはないが、もし、南宮山の毛利勢が九月十四日の夜に和談交渉をしていなければ、山中における石田三成らの布陣は有効なものであったに相違ない。

 
四 『神戸五兵衛覚書』との整合(高橋)

 以下、島津家家臣・神戸五兵衛の後年(46)の記述、『神戸五兵衛覚書』(47)による。

【原文】「一、九月十四日夜入候てより大柿御打立、夜中ニ関ヶ原へ御着被成候、夜明候へハ東国衆大谷刑部殿陳ニかゝり、六七度之合戦有候之処ニ、上之山より筑前中納言白旗をさゝせ横入仕、大谷殿人数壱人も不残打取申候、」

 島津隊は九月十四日の夜に大垣を出発し、夜の明けないうちに関ヶ原へ到着した。
 夜明けとともに東軍が大谷吉継の陣(図中H)へ攻撃を開始した。六~七度合戦をしているところへ、小早川隊が松尾山から降り、大谷隊の側面へ攻撃をしかけたため、大谷隊は壊滅した。小早川隊はこのとき「白旗をささせ横入れつかまつり」とあるのみで「突然裏切った」とは書いていない。
 神戸五兵衛の記述(48)によると、九月十五日に最初に戦い、最初に壊滅したのは大谷吉継の部隊だった。この記述は通説とは大きく異なる。神戸五兵衛の記述は従来の布陣図と整合しえない。
 島津家家臣・神戸久五郎(49)、山田晏斎(50)、黒木左近兵衛(51)、新納忠元(52)らの記述いずれにおいても、九月十五日に最初に戦い、最初に壊滅したのは大谷吉継の部隊である。
 大谷吉継の陣地は西軍の布陣のもっとも東に位置していたと考えられる。

【原文】「備前中納言殿陳へハ新手之大将相懸追崩、此方之御陣へ相かゝり申候、東ハ別手之大将相懸候間、石田殿陣追崩候間、此方之御陳へ相かゝり、其猛勢真中へ_維新尊公御掛り被成、大敵を討捕真中を切明、東之ことく御切通被成候、」

 東軍はさらに宇喜多秀家の陣(図中F)、石田三成の陣(図中D・E)への攻撃を開始した。宇喜多隊・石田隊は壊滅して、島津惟新・豊久の陣地(図中A・B)が扼していた東山道を通過し、西・今須方面へ撤退しようとした。山中~今須間は、約一・三キロメートルの細くて曲がりくねった坂道である。大人数がここを通過しようとすれば、必ず渋滞する。
 西・今須方面への撤退が困難とみた島津隊は、東軍の猛勢の中央を突破して東南東・牧田方面へ撤退した。この話が後に「島津隊は徳川家康の本陣(53)へ突撃し、途中で向きを変えて伊勢へ逃げて行った」という話に転化したものと考えられる。
 余談だが、軍記物等に見られる「捨てかまり」・「釣り野伏」といった戦術を一次史料によって確認することはできない。


五 付記(高橋)

 共同執筆者の石田章氏と、遺構調査に同行してくださった宮崎諭志氏にこの場を借りて感謝を申し上げる。
 論者は、共同執筆者の石田章氏に、石田三成藤下本陣説を批判的な見地から検証していただくよう依頼した。同氏は城郭研究者としてのニュートラルな立場で遺構に関する調査をされ、縄張り図を作成されたことをここに付記する。


参考文献:
『岐阜県中世城館趾総合調査報告書 第一集』、岐阜県教育委員会、二〇〇二年
白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈:なぜ大谷吉継だけが戦死したのか」、別府大学史学研究会『史学論叢』第四六号、二〇一六年
「史料紹介:『戸田左門覚書』」、『地域史研究』一一六号、尼崎市立地域研究資料館、二〇一七年
高橋陽介『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』、星雲社、二〇一七年


註:

(1) 二〇一五年十一月、自費出版。論者は同書において、西軍「鶴翼の陣」についても否定している。
(2) 『岐阜県中世城館趾総合調査報告書 第一集』(二〇〇二年、岐阜県教育委員会)に笹尾山は立項されていない。従来石田三成本陣とされている笹尾山に陣城の遺構は無い。
(3) 二〇一六年三月、別府大学史学研究会『史学論叢』四六号。
(4) (3)に同じ。
(5) 二〇一七年四月に自費出版予定。二〇一七年二月校了済み。
(6) 周辺の地形は道路(国道二一号線)・線路(東海道本線・東海道新幹線)など大きく手を加えられている。「自害峰」から街道を挟んで北側は現在住宅地となっている。二〇一七年二月現在、「自害峰」の西側は大きく削られ、南北に通じる道路の造成工事中である。
(7) 『古今消息集』所載。
(8) 寛文三(一六六三)年二月。
(9) 明暦三(一六五七)年九月十日。
(10) 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺記録所史料一』(鹿児島県、二〇一二年)所載。
(11) 九月十四日の夜に行われた軍議を指す。
(12) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一四〇七号文書。
(13) 九月三日には京極高次らが、毛利家家臣を駆逐して大津城を占拠した。西軍はこれを敵対行為と見做し、攻撃している。
(14) (7)に同じ。
(15) 『尼崎市立地域研究資料館紀要 地域史研究』一一六号(尼崎市立地域研究資料館、二〇一七年)参照。
(16) (2)に同じ。
(17) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三九九号文書。
(18) 中書=中務少輔=島津豊久
(19) 松齢様=島津惟新=島津義弘
(20) (17)に同じ。
(21) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一四〇五号文書。
(22) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三〇九号文書。
(23) (17)に同じ。
(24) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三三一号文書。
(25) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三三二号文書。
(26) (12)に同じ。
(27) 島津義弘陣地否定地の詳細な縄張り図は、すでに中井均氏が『岐阜県中世城館趾総合調査報告書 第一集』(二〇〇二年、岐阜県教育委員会)において、「大谷吉継陣地跡」として作図されている。
(28) 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原一八六九の三
(29) (17)に同じ。
(30) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三二九号文書。
(31) 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原四一四六の一
(32) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三四〇号文書。
(33) (17)に同じ。
(34) (24)に同じ。
(35) (17)に同じ。
(36) (25)に同じ。
(37) (28)に同じ。
(38) 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』、一三六一号文書。
(39) (17)に同じ。
(40) 「(比高約十メートルの)台地の縁辺に沿って底辺の幅約三メートル高さ約一・五メートルの土塁が見られるが、農地の整備に伴う遺構の可能性が高い。」(石塚晋一、『岐阜県中世城館趾総合調査報告書 第一集』、二〇〇二年、岐阜県教育委員会)
(41) 『士林泝洄』所載。
(42) (10)に同じ。
(43) 論者による意訳:「そのため大柿衆もその場にいることが出来なくなって、大谷吉継は戦いの様子が心配であると言って、山中へ向かって撤退した。」
(44) 『大日本古文書吉川家文書之二』、九一三号文書。吉川広家が合戦二日後の九月十七日、大坂の毛利輝元へ宛てて書いた書状の下書きであるとされている。吉川史料館所蔵。
(45) (15)に同じ。
(46) 寛文四年(一六六四年)四月。
(47) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』、一三三〇号文書。
(48) (24)に同じ。
(49) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』、一三三二号文書、『神戸久五郎覚書』に「先一番ニ大谷刑部殿陳二かゑり申候」とある。
(50) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』、一三一三号文書、『山田晏斎覚書』に「一戦前大谷殿陳を筑前中納言被攻破」とある。
(51) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』、一四〇五号文書、『黒木左近平山九郎左衛門覚書』に「一戦前ニ大谷殿陳を筑前中納言被責敗候」とある。
(52) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』、一三九九号文書、『新納忠元勲功記』に「先一番ニ大谷刑部吉隆備ニ討掛…(中略)…大谷勢を無残程被打破、」とある。
(53) 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原九五九の二、「徳川家康最後陣跡」として史跡指定されているが、論者は『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』(二〇一七年、星雲社)においてこれを明確に否定している。
自害峰2 (640x452)
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