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佐賀戦国史研究会での報告レジュメです♪

2017年8月20日佐賀戦国史研究会での報告レジュメのみです。
良ければ見てやってくださいませ(。>ω<。)ノ
暑い夏でした(。>(ェ)<。)

吉川家文書九一三号の解釈と小早川秀秋「手返し」のタイミングについて ———関ヶ原合戦における東軍側史料と西軍側史料の齟齬を考察する
佐賀戦国研究会 二〇一七年八月二〇日 
於 佐賀城本丸歴史館 報告者 高橋陽介

一 研究史の整理 吉川家文書九一三号「吉川広家書状案」について


二 仮説を立てて吉川家文書九一三号「吉川広家書状案」を読む

 山中周辺における戦闘に関する記述の部分(「行之様子」)は、それに補う主語が「東軍は」であるのか、「西軍は」であるのかによって、まったく異なる内容となります。ここではどちらが正しいのか、仮説を立てて原文を読み、比較してみましょう。以下、前者(主語「東軍」)を「仮説A」、後者(主語「西軍」)を「仮説B」とします。
 「仮説A」の場合、文中「敵」は東軍、「御味方」は西軍となります。「仮説B」の場合、文中「敵」は西軍、「御味方」は東軍となります。

(仮説A)
 「追って言上いたします。このたびの総和談の事は、本来そちらへ伺って調えるべきなのですが、敵である東軍の状態は先書に申し上げたとおりです。
 徳川家康が到着しましたので、東軍の先陣衆はことごとく青野ヶ原(=関ヶ原?)へ打ち出し、徳川家康は陣地をいちばん前へ進めました。
 そうして東軍の手立ての様子を伝え聞いたところでは、東軍は人数を二手に分けて、その一手は山中へ攻め込んだということです。小早川秀秋はそうなると、逆意が早くも明白になってしまいました。
 それで大垣に籠城していた宇喜多・島津・小西・石田らも、そこに居ることが出来なくなって、山中へむかって、大谷吉継のことが心配であると言って撤退して行きました。これは佐和山へ二重引きをするつもりだったのだと思います。
 そうなると事前に味方である西軍と打ち合わせしていた■衆、■■衆らはほとんど合意をしたということです。大垣に居たものたちも、西軍に使者を送らないものはほとんどいなかったようです。もはやまったく合戦にはなりませんでした。」

(仮説B)
 「追って言上いたします。このたびの総和談の事は、本来そちらへ伺って調えるべきなのですが、敵である西軍の状態は先書に申し上げたとおりです。
 徳川家康が到着しましたので、東軍の先陣衆はことごとく青野ヶ原(=垂井周辺)へ移動し、東軍の先陣衆がそれまでいた陣所へは徳川家康が入りました。
 そうして西軍の手立ての様子を伝え聞いたところでは、西軍は人数を二手に分けて、その一手である宇喜多・島津・小西・石田らは山中へ攻め込んだということです。小早川秀秋はそうなると、逆意が早くも明白になってしまいました。
 それで大垣衆も、そこに居ることが出来なくなって、山中へむかって、大谷吉継は不安になって撤退して行きました。これは佐和山へ二重引きをするつもりだったのだと思います。
 そうなると事前に味方である東軍と打ち合わせしていた■衆、■■衆らはほとんど合意をしたということです。大垣に居たものたちも、東軍に使者を送らないものはほとんどいなかったようです。もはやまったく合戦にはなりませんでした。」


(考察)
・九月十七日の時点で、徳川家康の指示にしたがって行動している吉川広家が東軍のことをいまだに「敵」と呼ぶのは不自然です。
・仮説Aでは、垂井の東軍が山中に攻め込んだ後で、大垣の石田三成などが山中に向かったとしていますが、その場合西軍が先回りをして布陣することは不可能です。(西軍が山中で東軍を待ち受けるのであれば、東軍が動き出す前に、東軍の動きを察知して、先に行動を開始しなければなりません。)
・また、垂井の東軍が山中に攻め込んだ際、小早川秀秋の「逆意」がはっきりとしたのであれば、大谷吉継だけが山中に居るというのは不自然です。
・西軍が、松尾山を強制占拠した(とした場合)小早川秀秋とともに東軍を待ち受けて布陣するというのは不自然です。
・大垣から赤坂の徳川家康の陣地までは一里(=約四キロメートル)ほどで、目視できる距離にいます。この徳川家康を放っておいて、山中の大谷吉継のことを心配し、救援に行くというのは不自然です。
・先の部分で「敵」を東軍であると仮定した場合、後の部分の「御味方」が西軍では文意が通じません。この部分は、東軍と内通していた犬山加勢衆等が、東軍と合意に至った経緯を書いているものと思われます。


(仮説A)
 「この上は、「こちら東軍の手立ての様子はどうだったのですか?」と尋ねましたところ、二人の使者が言うことには、山中への先手は福島正則、黒田長政、そのほかに加藤嘉明、藤堂高虎、そのほか上杉征伐に加わったものたちが、小早川秀秋を手引きしたので、打ち合わせを中止して合戦となりました。南宮山への抑えは、先手池田輝政、井伊直政、本多忠勝、そのほか徳川家康馬廻り衆でした。」

(仮説B)
 「この上は、「こちら東軍の手立ての様子はどうだったのですか?」と尋ねましたところ、二人の使者が言うことには、山中への先手は福島正則、黒田長政、そのほかに加藤嘉明、藤堂高虎、そのほか上杉征伐に加わったものたちで、小早川秀秋の手引きであるので、小早川と宇喜多・島津・小西・石田らの戦っているところへ仕掛けて合戦となりました。南宮山への抑えは、先鋒池田輝政、井伊直政、本多忠勝、そのほか徳川家康馬廻り衆でした。」


(考察)
・この部分で吉川広家は東軍を「爰元(ここもと)」と呼んでいます。
・仮説Aの場合には東軍諸将が小早川を手引きして裏切らせたと解釈できます。仮説Bの場合には小早川が東軍諸将を手引きして山中へ後詰めをしたと解釈できます。
・吉川広家は先に「総和談が成立した」と言っています。総和談が成立したあとで東軍が山中へ攻め込む理由が「西軍を攻撃するため」というのは不自然です。東軍は「小早川を救援するため」に山中へ向かったと考えられます。
・吉川広家は「徳川家康は南宮山の抑えであった」と言っています。徳川家康は山中へは向かっていません。「徳川家康は城攻めを不利と見て、得意の野戦にもちこんで決着をつけようと、西軍を関ヶ原へおびきだした」という説は後世の創作です。西軍が山中へ向かった理由は、「徳川家康を迎撃するため」ではありません。


(仮説A)
 「敵である東軍の状況を聞いてみたところ、思ったとおり山中のことは即時に乗り崩され、ことごとく討ち果たされたということです。島津は精鋭三千人でそれなりに一合戦をしたようですが、なかなか前進することはできずに、島津義弘一騎で切り抜けて、伊勢路へむかって撤退していったそうです。」

(仮説B)
 「敵である西軍の状況を聞いてみたところ、思ったとおり山中のことは即時に乗り崩され、ことごとく討ち果たされたということです。島津は精鋭三千人でそれなりに一合戦をしたようですが、なかなか前進することはできずに、島津義弘一騎で切り抜けて、伊勢路へむかって撤退していったそうです。」

(考察)
・この部分で吉川広家は、あきらかに西軍を「敵」と呼んでいます。
・吉川広家が東軍の状況を聞き、使者が西軍の状況を説明するのは不自然です。吉川広家は西軍の状況を聞き、使者は西軍の状況を説明したものと考えられます。

(小括)
 九一三号文書において吉川広家は、西軍を「敵」、東軍を「御味方」と呼んでいます。
 吉川広家の記述によりますと、西軍は小早川勢を攻撃するために山中へ向かったことになります。


三 反証史料を読む

 では、吉川広家が言っていることが本当なのかどうか、こんどは反証史料を読んでみましょう。
 「九月十七日付彦坂元正・石川安通連署書状」(【史料二】)によりますと、小早川秀秋は開戦と同時に裏切ったことになります。
 一次史料ではありませんが、戸田氏鉄の後年の記述(【史料三】)によってもまた、小早川秀秋は開戦と同時に裏切ったことになります。同書によると、小早川秀秋は大津城を攻略し、九月十三日の晩に大津を出発し、九月十四日の午後四時ごろ関ヶ原に着陣したとあります。
 「八月二十八日付佐々正敞書状」(【史料四】)によりますと、小早川秀秋は八月二十八日、鍋島勝茂・毛利吉政らとともに北国方面へ向かっていました。
 「八月二十九日付保科正光書状」(【史料五】【史料六】)によりますと、小早川秀秋は八月二十八日、石田三成・宇喜多秀家・小西行長・島津義弘らとともに大垣に籠城していました。

(参考:『黒田家譜』(元禄元年成立、貝原益軒)によりますと、小早川秀秋はもともと(徳川家康着陣より前から)松尾山に布陣しており、そこへ黒田長政が使者をつかわし、合戦がはじまったら裏切るように説得したとなっています。)

 東軍側の一次史料および編纂史料によりますと、小早川秀秋は開戦の直前まで西軍として行動していて、開戦と同時に裏切ったことになります。
 東軍側の一次史料および編纂史料には、「小早川秀秋は奉行衆の指図にしたがわず、佐和山周辺に待機していた」という認識はありません。また、「小早川秀秋は伊藤盛正を追い出して松尾山を占拠した」という認識もありません。
 東軍側の編纂史料には、「九月十四日の夜に総和談が成立した」という記述はありません。

 (補足説明:仮にそうでない場合、「九月十四日に西軍の守備隊を追い出して松尾山を占拠した小早川秀秋が、九月十五日に西軍諸隊とともに関ヶ原に布陣して東軍を迎え撃とうとした」ということになりますが、これはきわめて不自然です。また、そのような説明は東軍側の一次史料および編纂史料にはありません。)

(小括)
 彦坂元正・石川安通らは、「小早川秀秋は開戦の直前まで、西軍として、奉行である石田三成の指示に従って行動していた」という認識のもと、その前提により、小早川秀秋は開戦と同時に、あるいは戦闘中に突然裏切ったと理解したものと思われます。




四 結論

 関ヶ原合戦本戦の経緯を、東軍側史料のみによって再現すると、「小早川秀秋は開戦の直前まで、西軍として、奉行である石田三成の指示に従って行動していたが、九月十五日、開戦と同時に突然東軍側として西軍を攻撃した」となります。この根拠となる史料は、「九月十七日付彦坂元正・石川安通連署書状」、「八月二十九日付保科正光書状」等です。

 関ヶ原合戦本戦の経緯を、西軍側史料のみによって再現すると、「小早川秀秋は開戦の直前まで、奉行衆からの指図に従わず佐和山周辺に待機していたが、九月十四日、東軍側として松尾山を占拠した。西軍は小早川勢を攻撃するために山中へ向かった」となります。この根拠となる史料は、「九月十二日付石田三成書状写」、「九月十七日付吉川広家書状案」、島津家家臣史料等です。

 論者は後者こそが、より実際に近い関ヶ原合戦の経緯であると考えます。





参考文献

・白峰旬「関ヶ原の戦いにおける九月十五日当日の実戦の状況について(その一)」(『別府大学紀要』第五四号、二〇一三年二月)
・白峰旬「関ヶ原の戦いのとらえ方について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第四三号、二〇一三年三月)
・白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、二〇一四年十月)
・白峰旬「関ヶ原の戦いにおける吉川広家『御和平』捏造のロジック」(愛知中世城郭研究会『愛城研報告』第一九号、二〇一五年八月)
・白峰旬「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する:高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して」(別府大学史学研究会『史学論叢』第四六号、二〇一六年三月)
・白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈:なぜ大谷吉継だけが戦死したのか」(別府大学史学研究会『史学論叢』第四六号、二〇一六年三月)
・高橋陽介「(研究ノート)白峰旬氏による高橋説検証への意見:小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」(東海古城研究会『城』第二二二号、二〇一六年十月)
・高橋陽介『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』(星雲社、二〇一七年四月)
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