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佐賀戦国史研究会~の♪

とりあえず、今書いてある分をコピペしました。分かり難いとは思いますが、ご容赦くださいませm(__)m

8/21 佐賀 レジュメ補足と質疑応答編集する。

レジュメ補足

・「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」と「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」はセット。どちらか片方だけ読んでも意味が分からない。
・吉川も小早川も自分の意志で東軍についた。それまでは仕方なく西軍にいただけ。
・黒田長政は取次をしただけ。長政が説得して寝返らせたわけではない。
・如水は吉川広家を騙そうとはしていない。広家は如水を恨んでいない。(二木氏の説を否定、根拠→「元和三年吉川如券示訓」)
・広家、毛利の不戦工作ではなく、徳川毛利間の和平工作をした。
・九州の諸領主は石田三成の西軍への参加を知らない可能性もある。如水はおそらく八月三日に知った。
・近年の研究動向をふまえると、石田三成は奉行の中で突出した存在ではない。利休切腹、秀次事件、朝鮮出兵の黒幕説はすべて後世の創作。武断派と文治派の対立、戦下手も。
・家康と三成の対立軸を一次史料で証明することは大変難しい。秀吉死去以前は没交渉。秀吉死後、急速に接近し、協調関係(朝鮮からの撤兵、前田征伐など)。

・如水は最初から東軍。「弓矢成り立ち申さず」は合戦が起きないと言っているのではなく、家康が勝に決まっていると言っている。「さてさて不慮のことども如何に」というのは、西軍の決起が失敗するであろうと示唆している。
・東軍なのか西軍なのかはっきり書かないのは、保身のためというより、この書状が西軍に渡ってしまった際、広家の立場が危うくなったり、広家の行動が規制されてしまったりすることを配慮してのことだろう。
・如水は同時期、鍋島直茂に対しては、自分は徳川家康一辺の覚悟であると言っている。鍋島直茂に対しては上記の(広家に対するような)配慮は必要なかったから。つまり、如水は最初から東軍。



質疑応答

質問者 白峰氏 「黒田長政遺言状は後世の創作とお考えだが、後世とはいつ位の時代を想定されていますか?」 

報告者 高橋 「すくなくとも黒田騒動(寛永9(1632)年)よりは後だと思います。」  (…と答えましたが、『黒田家譜』の影響を受けているので、もっと後でした。さらに言えば、信玄・謙信が出てくるので『甲陽軍鑑』の影響、諸葛孔明が出てくるので『三国志演義』の影響も受けているようです。憶測になりますが、文化の成熟した江戸時代後期以降のものではないかと思います。)


質問者 有川氏 「吉川広家の立場というのをはっきりと語ってもらえればと思います。」

報告者 高橋 「広家は月山富田十四万石、四位侍従として公家成り、秀吉の直臣扱いです。秀吉が亡くなった時には形見分けに太刀を一腰拝領しています。関ヶ原本戦において実質的に毛利軍を指揮していたのは広家であると、報告者は考えています。」


質問者 有川氏 「広家がなぜ西軍について行ってるのか、毛利軍をどうしようとしていたのか、どこでどんな行動をしていたのか、あるいはどう止めようとしていたのか、その辺を言ってもらえると。」

報告者 高橋 「①七月十四日付榊原康政宛吉川広家書状、②八月八日付黒田長政宛徳川家康書状、③八月十七日付吉川広家宛黒田長政書状、④八月二十五日付吉川広家宛黒田長政書状、⑤九月十四日付起請文、⑥九月二十九日付起請文、⑦十月四日付吉川広家宛黒田如水書状、⑧十一月十八日付吉川広家宛黒田長政書状、以上8通の書状をみるかぎり、広家は一貫して毛利家、あるいは毛利輝元のために、徳川家康との和平工作をしています。」

報告者 高橋 「広家は「関ヶ原で決戦がはじまったら戦わずに見ている約束」などはしていません。それは関ヶ原で決戦があることを知っている後世の人間の創作です。」


報告者 高橋 「広家は「毛利家を乗っ取る約束で徳川に内通した」という九月二十日付近衛前久書状の内容は、上記8通の書状の内容とは異なります。」


質問者 白峰氏 「広家は、毛利家・徳川家の不戦耕作ではなく、毛利家・徳川家の和睦工作をしていたと、そういう解釈をされているということで良いか?」

報告者 高橋 「当然異論はおありでしょうが、報告者はそのように考えています。」 
(…と質問者が白峰先生なのでそう答えましたが、白峰先生「関ヶ原の戦いにおける吉川広家『御和平』捏造のロジック」を未読の聴講の皆様には何のことか分からなかったかと思います。くわしくはあらためて別稿にて書きます。)

質問者 岡本氏(小城郷土史研究会) 「家康が長政に送った書状が、なぜ吉川家文書にあるのだろうか?」

報告者 高橋 「八月八日付黒田長政宛徳川家康書状」の現物は岩国市の吉川史料館にあります。この書状が吉川家にある理由は、憶測になりますが、八月十七日の広家宛書状で長政は「写しを渡す」と言っていますので、この時点ではまだ長政のもとにあることが分かります。おそらく事後になって、自分が嘘をついていない、広家を騙していない、ということの証明として長政が広家に渡したのではないかと思います。」


質問者 深川氏(佐賀戦国研究会) 「ネット上で話題を呼んだ、大谷勢が伊勢方面から来たという、高橋さんの著書中の解説。それを白峰先生が論文上で、漢字読み違いの指摘と共に否定されました。大谷勢は伊勢方面から来た事は間違いだったということで良いですか?」

報告者 高橋 「誤読に関しては白峰先生のご指摘のとおりです。ですが、だからといって大谷が北国から来たとはならないと思います。大谷が北国で前田を撤退させてから山中に入ったという説は一次史料で証明することが出来ません。むしろ、九月三日から大津、高宮、佐和山で不穏な動きがある東山道を避け、比較的安定している伊勢方面を経由して大垣に入ったとするほうが自然であると考えます。」


質問者 白峰氏 「長岡幽斎の書状の位置付けについて」

報告者 高橋 「公家三人に宛てたものですが、おそらく本当の宛先は奉行衆ではなく智仁親王(もと秀吉猶子、後陽成天皇の実弟、幽斎の歌学の弟子)であると思います。つまり、奉行衆に命乞いをしているのではなく、むしろ奉行衆の非道を暗に批判しているものであると考えています。」



歴史に詳しくない素人が言うのもなんですが、人質を西軍東軍両方に出している大名は、どっちつかずな大名ばっかりだったんではないだろうか、そして勝った方に言い訳できるようになるべく様子見してたんじゃないの?中には、はっきりしてる大名家や、武将もいただろうけど、生き残ってなんぼでしょう?それよりも儀や忠義と言われるもののほうが大事なのかなぁ。。。戦国の争いの世に生きているからこそ、必死で家を守り、生き抜こうていうのが人間ではないのかな、などと思うのだが。←素人の意見なんでスルーして下され|ω・`)


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