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家長殿から、お詫びと訂正



お詫びと訂正
「研究ノート 白峰旬氏による高橋説検証への意見-小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」(東海古城研究会機関紙『城』第222号)
 上記拙稿において立花宗茂が8月22日に大垣にいた論拠として「八月二十二日付徳川家康宛井伊直政・本多忠勝連署書状」を提示し、「浅野家文書から引用」としましたが、これは「八月二十二日付井伊直政書状(写)」、伊達家文書之二、六九九号文書(東京大学史料編纂所DB、インターネットで閲覧可能)の間違いでした。場所も大垣ではなく垂井の間違いでした。

 *遅くなりましたが、別府大学教授の白峰旬先生からご指摘があり、上記にお詫びと訂正をさせていただきます<(_ _)>
  白峰先生いつもありがとうございます。

 *そして、下記には只今予約中の我が家の本!「一次史料にみる関ケ原の戦い」(改訂版)にも新たに書き加えられた
  家長殿の説をちょっとだけですが載せてみました(。>ω<。)ノ←(私からすると長いんですが笑)
  古文書って読んでみないと本当に分かんないもんですねぇ(ノ∇≦*)


「関ヶ原前夜、島津に関する誤解等について」

 慶長三年十月十一日、島津龍伯は内大臣・徳川家康のもとへ参上した。これは徳川家康からのたびたびの要請に応じたものである。徳川家康からの使者は流干という人物だった。

 同年十月二十八日、島津龍伯は権大納言・前田利家のもとへ参上した。島津家の指南役である石田三成が博多へ下向する前だった(石田三成の博多下向は、病気のため延引となる)。前田利家への使者は伊集院幸侃だった。

 同年十二月六日、島津龍伯は徳川家康邸を訪問した。これは前述の流干を通じてたびたび招待されていたこと、また十二月一日には島津忠恒・山岡道阿弥両人を通じてさらに招待され、断り切れなかったためである。島津龍伯は、増田長盛・長束正家・前田玄以に報告し、了解を得てから徳川家康邸を訪問した。

 以上のことを、慶長四年一月三日、島津龍伯は、島津忠恒・島津惟新にたいして、起請文をもって釈明している。

 慶長四年一月七日、島津忠恒は立花親成・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門らとともに、徳川家康主催の茶会に出席した。徳川家康からの使者として取次をしたのは寺沢貞成、出席者の取りまとめ役は立花親成だった。

 一月九日、徳川家康ら五大老は、慶長三年十月に泗川で行われた合戦の論功行賞として、島津忠恒に五万石を加増。島津忠恒は少将として公家成りし、さらに長光をたまわる。島津惟新は正宗をたまわる。泗川合戦は豊臣秀吉の死後に行われたものであった。

(その後、島津龍伯は石田三成に領土割譲に関する何事かを要請するが、聞き入られなかった。三月九日、島津忠恒は伏見において、伊集院幸侃を茶会の席で殺害し、薩摩へ下国。伊集院の領地を強制接収にかかった。中央には島津惟新が残り、徳川家康に接近し「入魂」となる。伊集院幸侃は豊臣家の直臣扱いであったが、徳川家康はこれを島津家内部の問題として処理した。)


通説との違い

①徳川家康は島津龍伯のもとを訪問していない。
②島津龍伯が釈明した相手は、石田三成ではなく、島津忠恒と島津惟新である。
③徳川家康が「何を言っているのか分からない」といって腹を立てたのは島津龍伯ではなく、伊集院幸侃未亡人である。
④徳川家康が島津龍伯を招いたのは、「豊臣家を簒奪しようとたくらみ多数派工作をした」からではなく、泗川合戦の論功行賞のためである。
⑤島津龍伯は前田利家のもとへも参上している。
⑥慶長三年末に、徳川家康と前田利家は対立していない。(この事に関しては拙著『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』に詳しく書いた。)
⑦徳川家康のもとへ参上したのは、島津龍伯だけではない。島津惟新・島津忠恒・立花親成・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門らも参上している。
⑧立花親成は、庄内の乱を通じて「親家康」である。伊集院へ肩入れし徳川家康の不興を買ったのは加藤清正である。

(「八月二十二日付井伊直政・本多忠勝連署書状」、「十月十六日付島津忠恒・島津龍伯連署書状」、「十月二十七日付立花親成書状」、は上記のことを踏まえて読むべきである。特に「十月十六日付島津忠恒・島津龍伯連署書状」は従来、敗戦の言い訳に、島津惟新の行動について、事実と違うことが書かれていると解釈されていた文書であるが、案外筋の通った釈明である。)


(六四四号)『鹿児島県史料旧記雑録後編三』


一、内府様へ参候事、十一月拾日、使ハ流干と申仁にて承候、度々斟酌申候へ共、しいて被仰候間、栢原殿へたつね申参候、別条之儀曽不申入、又不承候事、
一、大納言殿へ参候事、十月廿八日、是ハ治少様はかたへ御下向前ニ、幸侃を以得御意ヲ参候事、
一、家康私宅へ入御之事、最前流干を以度々承候、雖斟酌申候、其後十二月朔日ニ、御家門様・道阿ミ御両所にて、亦々被仰候聞不及力、十二月六日ニ入御候事、付徳善院・増田殿・長束殿へ御案内申候、ました殿・長束殿よりハ、前之日ニ御音信ニ預候事、
一、たねかしまてつほう御所望之事、又こゝもとにて鉄放御あつらへ候事、此儀ニ付、度々御使給候事、
一、血判を以誓紙上置候条、于今少モ別心無之候、此上者是非ニ御糺明、大望ニ存候事、
正月三日 龍伯(花押)
又八郎殿 兵庫頭殿

(六四五号) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』

一、内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曽別心有之儀不申入、又不承候、
八幡 春日 愛宕山モ御照覧、偽無之候、御糺明大望ニ候、以此趣委可被申上候、恐々謹言、
慶長四年正月三日 龍伯(花押)
又八郎殿 兵庫頭殿

(六四六号) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』

 羽左近殿より何へも御届可有候、
明後日七日之朝、_内府様御茶可被進由候間、其御心得尤候、左候者、明晩御門まて御礼ニ御出候て可然候、兵庫頭殿ハ御煩を御存ニ而候間、又八郎殿迄御出可有之候、恐々謹言、
正月五日 寺志摩 貞成 判
嶋津又八郎殿 羽柴左近殿 羽柴藤四郎殿 高橋主膳殿 筑紫善吉殿   人々御中

(六四八号) 『鹿児島県史料旧記雑録後編三』

於今度朝鮮国泗川表、大明・朝鮮人催猛勢相働候之処、父子被及一戦則切崩、敵三万八千七百余被切捕之段、忠功無比類候、依之為御褒美、薩州之内御蔵入給人分、有次第一円ニ被宛行訖、目録別紙ニ有之、并息又八郎被任少将、其上御腰物長光、父義弘へ御腰物正宗被為拝領候、於当家御名誉之至候也、仍状如件、
慶長四年正月九日 安芸中納言輝元 会津中納言景勝 備前中納言秀家 加賀大納言利家 江戸内大臣家康
羽柴薩摩少将殿

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予約受付2日目にして入荷待ちって。。。(ノ_<)10冊くらいしか出品してなかったんやろか(苦笑)
ご予約いただいた皆様方、本当にありがとうございます(*・`ω´・)ゞ感謝してもしきれません。
夫婦共々より精進して参りたいと思っております<(_ _)>
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